関行男(第1神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長)

関 行男

(せき ゆきお、1921年8月29日 - 1944年10月25日 享年23歳)


 ≡ 神風(しんぷう)特別攻撃隊・敷島隊隊長、海軍中佐 

愛媛県西条市出身


第二次世界大戦中における日本海軍航空隊の艦上爆撃機、戦闘機パイロット。

最終階級は海軍大尉(死後海軍中佐に二階級特進)。海軍兵学校七十期卒業


昭和13年12月江田島の海軍兵学校に入校、その後霞ヶ浦航空隊へ進み、航空技術を習得して教官となり優秀な操縦生を育成した。

 
昭和19年5月大尉に昇進、台南航空隊分隊長を経て201空飛行分隊長として9月にルソン島のマバラカット基地に出動、10月25日、神風特攻隊敷島隊隊長として
レイテ沖海戦における最初の神風特別攻撃隊である敷島隊を隊長として指揮し、自らも愛機とともに米艦艇に突撃して戦死した。

 

死後は軍神に認定され、大いに宣伝されたが、敗戦後は当時の世相の中で一転して日陰の存在となるなど、死後の評価は時代背景に翻弄された。

 
昭和50年西条市楢本神社に"関行男中佐慰霊碑"が建立された。地元海軍会等の皆さんにより慰霊碑の式典が毎年10月25日に行われている。




滑走を開始した敷島隊のゼロ戦。手前は胴体下に250キロ爆弾を装着した1番機・関行男大尉の搭乗機。松葉杖をついて見送るのは201空司令山本栄大佐である。




決別の水盃を交わす敷島隊の隊員たち。

左端が隊長の関大尉。特別攻撃隊は、海軍第一航空艦隊司令長官・大西瀧治中将の発案によって実施された。

 




昭和19年10月25日、護衛空母セント・ローに特攻機が命中した瞬間。栗田艦隊のレイテ湾突入支援のため体当たり攻撃が実施されたが、レイテ湾口を目前にしながら反転し、その成果は生かされなかった。



関行男大尉の遺書 【二十三歳の、関行男・海軍大尉】


≪1通目の遺書 / 母・サカエ 妻・満里子の両親宛≫

父上様、母上様。

西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけ致し、不幸の段御許し下さいませ

今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐるものはありません。

鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき 其の御恩に報ゆる事も出来ずに行く事を御許し下さいませ

本日 帝国のため 身を以って母艦に体当たりを行い 君恩に報ずる覚悟です

皆様御体大切に 

≪2通目の遺書 / 妻・満里子(新婚三カ月)宛≫

満里子様

何もしてやる事も出来ず 散り行く事はお前に対して誠に済まぬと思っている

何も云わずとも 武人の妻の覚悟は充分出来て居ると思ふ 御両親に孝養を専一と心掛け生活して行く様 色々思出をたどりながら出発前に記す

恵美ちゃん坊主も元気でやれ  

≪3通目の遺書 / 霞ヶ浦の予科練第42期飛行学生宛≫

教え子へ

教え子は散れ山桜の如くに

 

神風特別攻撃隊 戦没者慰霊祭(10月25日)軍神関中佐

愛媛新聞 2014.10.23 掲載コラムより
愛媛新聞 2014.10.23 掲載コラムより

特攻の先陣神風特別攻撃隊敷島隊 追悼式典 10月25日(命日)

 

太平洋戦争末期の昭和19年、多数の戦艦を失い、戦略的に無力となっていた日本海軍は、爆装した零式艦上戦闘機を駆って、米軍航空母艦に突入する、いわゆる、神風特別攻撃が中心となっていった。
その特別攻撃は、西条市出身の関行男大尉(戦死後2階級特進で中佐)を隊長とする「神風特別攻撃隊敷島隊」に始まる。関氏とともに散華した5名は楢本神社の境内に祀られ、慰霊の碑が建てられた。毎年10月の命日には、盛大な慰霊祭も行われている。

 

10月25日は関行男中佐、中野磐雄少尉、谷暢夫少尉、永峰肇曹長、大黒繁雄曹長がレイテ湾に於いてアメリカ護衛空母セント・ローに特攻を行い見事撃沈した日である。神風特別攻撃隊第一号、敷島隊。